自分を信じずにフローでカバーすれば、習慣は変えられる(かも)

sleep cycleというアプリを最近インストールした。

  • 睡眠時間
  • 睡眠の質
  • いびきをいつかいていたか(その音声も)

などを測定してくれるアプリで、スマホのマイクで、寝返りなどを音から判定しているらしい。
そして、その音をキューに、時々の睡眠の深さを判定して、ちょうど起きやすい浅い睡眠のときにアラームを流してくれる。実際、かなりスムーズに起きることができる。

曜日や天気、気圧などと睡眠の質との関係なども統計データとして算出してくれるので、意外な発見もある。
メモとして今日は運動した、とかお酒を飲んだ、とかも残しておけば、お酒を飲んだ日はいびきをかきやすいとか、睡眠の質が悪いということまでわかるので、データを見るだけでも結構おもしろい。

それがわかるだけでも十分にありがたいアプリではあるのだけれど、実は個人的に一番恩恵を受けたのは、就寝前にスマホを見れなくなったことで、睡眠の導入がスムーズになったことだ。

今まで枕元にスマホを置いていたのだが、このアプリでちゃんと測定するために、近くの机にスマホを置いて寝るようにしている。
机とベッドが離れているので、寝ようと決めたあとにスマホが触れない。

今までは、少しでも気になったことがあるとスマホを触ってしまい、結果的にベッドに横になってから数十分だらだらしてしまうこともよくあった。
もちろん寝る前にスマホの画面を見ると、睡眠の質が落ちることは認識していたし、やめようとも思っていたのだけれど、なんせスマホって便利すぎるので、ちょっと調べたいことがでてくると触ってしまう。

本当は意志さえあれば、いつでもスマホを見ずに就寝なんてことができるのだろうけど、なぜかずっとできていなかった。もしかしたら一種の中毒みたいなものなのかもしれないけれど。
こんなに簡単に、悩みが解決するなんて自分でもびっくりする。

だいたいのことは、意志でやめられなかったりする。
でも、簡単なことでやめられたりする。

なんかそんなことに気づいてしまったら、いろいろな習慣とかは、ちょっとした切り取り方で簡単にどうにでもできることなんだろうなと思った。

基本は、自分を信じないこと。

その上でどうやってハードルを置いて、その行為をやめれるような導線に自分を置くか。
そういう考え方が大事なんだろうな、とふと。

最初に書き出した内容と全く違う内容になってしまった。
が、これはこれで雑記として残しておく。

目標を決めて、達成すること

6/5までに○○kgまで体重を落とす。

という目標を妻に宣言し、それなりなダイエット生活を送っていたのだが、今日目標体重を達成できた。
当たり前だけど達成感がある。

と同時に、最近短いスパンで目標を立てて、何かを達成するっていうことがなかなかできてないな、と反省した。
1年スパンや、もうちょっと長いスパンの目標はひっそりと立てていて、それなりに達成しているのだけれど、もうちょっと1ヶ月や1週間の単位で、自分自身で何かを設定して、それをちゃんと実行していく、ということはほぼほぼできていないし、やっていない。

今回のきっかけはダイエットなのだけれど、仕事でもプライベートでももうちょっと自分自身にプレッシャーをかけつつ、暮らしていきたいな、と改めて。
それはアウトプットする頻度をどのくらいにするということでもいいし、いついつまでに資料を作る、とか小さなことでもいい。

結構目標設定をしたはいいものの、それができていない状況が当たり前になってくると、デッドを守らなくてもいいような感覚に慣れてしまう。結果なんとなく目標も立てずになあなあに、なんとなくのんびりやってしまうことも多くなるのかな、といろいろな人を見て感じる。
(そんで、あれどうなってる?とか聞かれたときの言い訳とか謝り方だけうまくなっていく)

人間は習慣の生き物なので、普段からちゃんと約束を守るとか小さなところから、しっかりと達成していきたいな、と自戒を込めつつ。
当たり前に立てた目標に対しては努力したいし、達成したいと思って日々を暮らしたいです。

意識をどこに持つか

クリエイティブな人になりたい。

なんて思っている人はたくさんいると思う。僕もそうだ。
どうすればクリエイティブになれるか、なんていろいろと試行錯誤している人も多いと思う。

クリエイティブマインドセットという本には

「自分がクリエイティブである、と思った瞬間にクリエイティブな人間になっている。」

なんてシンプルな言葉が載っていた(うろ覚えなのでニュアンス違かったらすみません)。
当時はふーん、なんて思って流していたのだけれど、最近少しずつ理解できてきた気がする。
(といって理解できてないことは多々あったりするのだけれど、一旦ちょっとは理解できたことと自分ではしてる)

最近いろいろな人に会って、気づいたことは、
ビジネスに精通している人は、ビジネス的にハイレベルでありたいと昔から思っていた人が多いし
博学な人は、博学でありたい(もしくは何か目的があってその副産物で博学になっている)人が多いし
クリエイティブな人は、クリエイティブになりたいって思っている人ばっかりだ。

考えればとんでもなく当たり前なことではあるのだけれど。

クリエイティブというややこしいものは、なんとなく特殊技能な気もしてしまうけれど、案外そっち側にいけるスイッチはそんなところなのかもしれない。

いまいま自分がクリエイティブじゃないと思っているなら、そりゃクリエイティブじゃないよね、ということなのかもしれない。

こんなこと書くと精神論的な感じになってしまい、個人的にはちょっとどうなんだろと思うけれども、結局は意識をどこに持てるかというところで、大きく人の成長の幅っていうのは変わるんだろうな、と。

それを考えると、やはり数年後どうなっていたいかとかを定期的に真面目に考えるのは、非常に大事なことなのでしょう。

周りからどう見られているかということを意識すること:バンド時代に感じていたこと

僕は14歳ぐらいから22歳になるまで、ずっとバンド活動をしていた。

活動の中で、先輩バンドの人とかメジャーレーベルのちょっと偉い人たちから「曲も演奏もすごくいいんだけど、もっとステージ上での動きどうにかならんの」というフィードバックいただくことが多かった。
僕は結構自分のなかに興味が向くタイプで、ステージ場でのいきすぎたパフォーマンスは寒いわアホ、と思っているタイプだったのもあり、いつもありがたいアドバイスを聞くたびに「いやいや自分たちが求めてない動きとかする必要ないっしょ」とか生意気にも思っていた。当時は、アドバイス全然聞いていなかったのだけれど、今ならわかる。

伝わってないと意味ないのだ。
というのもあるけど、見掛け倒しで、印象変わるやつが7割なのだ。

「なんかすごそう」というのに人は惹かれることが多い。一方で、その人の中身がどうなのかまで判断できる人は少ない。

ビジネスのシーンであっても、音楽のシーンであっても、「こいつらすごい!」の定義が定まってないところって、どうしても自分の感覚を信じざるえない。

人間ってバカだから、最初の印象から逃げられない部分はあって、いわゆるノンバーバルコミュニケーションが圧倒的に大事だということが最近改めて認識している。

1年を振り返る

いつもこの時期になると、いろいろな人が1年を振り返る。

ただ、それってただ単に一年の区切りってものがそこにあるからで、
もっと自分のタイミングでいろいろ振り返ったほうが自然なんだろうな、とも思う。

世の中にあるものって実は本質的には無いようなものばっかりで
だからこそ来月から〜とか来年から〜とかというのは無意味。

もちろん世の中がそういう虚構というかルールの中で動いているから、
それと違うリズムで動くのは難しいとは思いつつ、今日はサラダ記念日、みたいな感じで自分で決めきるのが大事だよな、と改めて。

自分に期待しない

だいたいの人は自分のことをできる人だと思っている。

いや、思っているというよりも、信じているという感じかもしれない。
自分ができない人だと認めるのは大変なことだしね。

ただ、僕が最近強く思うのは、みんな自分が思っているよりも自分はできなくて、
だからこそいろいろな問題が起きているんだと。

「明日までに出すはずだった資料がまだ用意できてない……」
「朝起きてやろうと思っていたのに起きれなかった」
「今日中に終わらせるはずだったのに、他の仕事に追われて何もできなかった」

そんなんよくあることだ。上記はほとんど自分に対しての過信から生まれるんじゃないだろうか。

僕は最近、自分ができない人だし、怠惰な人だと意識するようになった。
それを自覚できると、じゃあ怠惰な自分でもどうやったらできるだろうか、とか仕組みとかルールの方に気を使えるようになる。

そうすると不思議とレベルアップした気分になる。もともとが低いんだけどね。

「テンションがあがることをしている」という意識をもつこと

家族と外食に行くのが好きだ。

あんまり食べれないものを食べれるとか、お金がかかることをしてるとか。
ちょっとした優越感(誰にだ)みたいのを、ちゃんと味わうってのが大事なんじゃないかな、とふと思った。

これは仕事についてもそうで、もちろんちゃんと目的があって、そこについての仕事になってるかという観点もあるのだけれど、
メンバー一人ひとりがいまやっている仕事にテンションがあがる理由を作れているかどうか、ってのがチームが伸びるかどうか、の大きなファクターなんだろうな。

怒ってるように見せたいから怒る

今日はとんでもなく悲しい出来事が。

ベッドでごろごろしたあとに、ふと起きてみるとPCのディスプレイがバキバキに……。

犯人は娘なんだけれど、まあ娘は何をしたのかはまだまだ理解できない年だ。

ただ僕としては、仕事に支障でるし、ディスプレイ交換するのにこんなに費用かかるのかよ……とか、いろいろともやもやした。

ほんとに頭をかかえる僕の隣で、娘はきゃっきゃと楽しそうにはしゃいでいる。
なんというかちゃんと自分がやってしまったことを理解してほしくて、あきらかに態度を変えてみたりもしたのだけれど、あまり伝わらず。

と、僕はここで思ったのは、僕は怒りたくて怒ってるんじゃなく、怒っているのを理解してほしいから、怒っているという感情を作り出しているんだなあと。

アドラーの本にそんなことが書いてあったことをふと思い出した。

自分を磨くということ

最近ふと思うのは、自分という人間のポテンシャルをどうやったら極限まで引き出せるかということ。

といっても、そんな難しい話じゃなく、料理でいうとどうやったら素材の味を引き出せるか的な話である。

仕事とかのスキルに関してもそうだし、人としての魅力とか、見た目とかそれはもういろいろなんだけれど、一番は見た目のところでよく考える。

ありがたいことに、僕は比較的小顔ということが特徴のひとつになっている。昔から顔の小ささについてはよく言われるのだが、最近言われることが少なくなってきた。
単に太ってきただけな気もする。確かに体重は一番少ないときと比べると5-6kgは増えている。筋肉量も減ってるから見た目にはもっとでてるかも。

なんかこういう状況で、なんか僕は僕という人間のポテンシャルに対して、結構失礼なことをしてきているんじゃないか、なんてもやもやする。

何が言いたいかというと、ダイエットしますよ、ってことです。

それはやりたいことなのか

合わない人と合わせる努力。
やりたくないことをやろうとする努力。

必要なければ、やらないほうがいいと思う。

変な美徳みたいなのに、惑わされずに、自分の意志を持って強く強く。
そんなことをできる人はどのくらいいるんだろう。